Gedaechtnis und Repraesentation - Kultur der Erinnerung in Japan und Deutschland(記憶と表象ー日本とドイツにおける想起の文化ー)


「今回のテーマは、『記憶と表象』です。「記憶」にもいろいろなものがあります。たとえば、昔の写真を見ると、自分や自分の家族についての私的な「記憶」がしばしば懐かしさを伴って思い出されるのですが、すでに忘れてしまって、どうしても思い出せなかったり、それが自分自身の過去であるとは思えないほどよそよそしいものになっている過去の一頁もあります。そこでは何かが想起されるとともに、忘却もされています。

こうしたことは、一つの国民や国家についても言えるでしょう。国民国家の形成に伴って、その国民独自の記憶、その国家の公式の歴史が求められ、そのために集合的な「記憶」を表象する装置として記念碑や博物館が建てられました。とはいえ、「国民国家の時代は終わった」とも言われる20世紀末の現在、記念碑や歴史的建造物、歴史記述や教科書、歴史的な題材を扱った文学や芸術、映画など、「想起の文化」を支える装置はどのような役割を果たすのでしょうか。そして、そこでは何かが想起され、何かが忘却されようとしているのでしょうか。また、そこで形成される過去のイメージは、回想や証言といった形であらわれる個人的な「記憶」とズレがあったり、両者が対立する場合もあるでしょう。私的な記憶と公的な歴史がすれ違うとき、そこには論争が生まれます。

とりわけ、戦争の記憶については、ドイツと日本における「過去の克服」の違いがよく取り上げられます。たとえば、ドイツが<アウシュヴィッツ>を直視して<ナチスの過去>を「克服」したのに対して、日本は<南京大虐殺>から目をそむけて「謝罪」ををを拒んでいる、といったふうに。あるいは、日本だけが悪いかのように教えるのは「自虐的」だ、といったふうに。でも、これらの問題は、単純な対比で結論を出すことはできないものでしょうし、自分の国がいいか悪いかだけで論ずることもできないことでしょう。むしろ、「記憶」をめぐる論争が、現在における過去のイメージをめぐる闘争にほかならないとすれば、ここでもその表現の可能性と共有の可能性への問いが中心的な問題となるでしょう。<アウシュヴィッツ>や<ヒロシマ>が人類全体に<記憶>されるべきであるとすれば、その「記憶」はどのようにして表象され、「理解」されることが可能なのでしょうか。

いずれも簡単に答えが見つかる問いではありませんが、これらの問題について、日本とドイツを対比し、さまざまなテクスト(文学、思想、映画、写真など)を扱いながら、意見を交換してみましょう。

『過去と表象』を考えることによって、インターウニ・ゼミナールの標語にもう一つの"inter"が加わるかもしれません。つまり、過去と現在の間に生産的な対話の可能性を探るという課題が。」(インターウニの案内より抜粋)


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